鞍馬天狗に会いに行った話 その2

薄暗い森の中をひたすら登り、滝谷峠にたどり着いた。まだ新しい標識が迎えてくれる他には展望もなく、もちろん人影もない。そこでふと、母の膝あたりを這い登る細長い土色の虫がいるのに気づいた。慌てて互いを確認すると、足元から忍び寄る不気味な姿がそこここに見つかる。心中激しく悲鳴を上げ、棒で叩き落し、でこピンのよろしく爪先で弾き飛ばした。こんな魑魅魍魎あふれる場所で、じっと休憩などしていられない。標識に従い、「二ノ瀬駅」方面へと下り始めた。
山道はところどころ崩れているものの、のぼりに比べれば(あるいは単に荒廃に慣れさせられたのか)、人の通る道であることがはっきりとしている分だけずいぶんマシである。途中、「キェーーーン」と鋭い悲鳴のような声がして、二頭の鹿が走り抜けるのを見た。ここは人ではなく獣の棲む場所なのだ。

人里に下り着いた時は、心底ほっとした。駐車場のある鞍馬駅まで歩いて上る元気はもはやない。小さな二ノ瀬駅のホームで叡電に乗り、今回の可愛い冒険は終了した。
しかしわたしにとってのメモリアルデイはここから始まる。2車両しかない小さな叡電の中で、首にまいていたタオルに血の跡を見つけた。てっきり首筋についた例の吸血生物を潰したのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。でもまぁもう血も止まっているし、そこまで気にするものでもない。鞍馬駅で下車し、他に人のいらい構内に座って汗拭きシートを使いながら、ふと自分のTシャツの首元を覗いてみた。何やら気になる影が見える、気がする。Tシャツの模様が映っているのかもしれないと、何度も内外を見比べてみるが、やはり違う。黒い影が胸の上に載っているのである。
大声を上げて立ち上がり、Tシャツを捲り上げて母親に駆け寄った。何かひんやりした物がお腹に触れた。悲鳴を上げてジタバタ喚くわたしに、
「何もついてないよ」
と母は言う。
背後で旦那さんが「落ちた」と、静かに床を指差している。
振り返って覗いたその指先には、ぷくぷくに太って、まるで巨大ナメクジのように膨らんだヤマビルの姿があった。そんなものがずっと首筋に張り付き、満腹してわたしの胸の上で眠っていたのだ。
娘の敵と、母はヒルを踏み潰した。どろりと血が流れる。何かの事件現場みたいだ。しばらく見ていると血だまりから5ミリほどの紐状の虫が這い出している。破裂しても、ヒルはまだ死なないのだ。
後に調べると、山で100匹近くのヒルに襲われたという話もあった。あの途中で引き返してきたハーフパンツにクロックスのサンダル姿の男の子も、きっとヒルの洗礼に出会っていたのだ。そうであればあの怒ったような表情も充分に納得できる。
ヤマビルというのはとても恐ろしいものです。毒性はないようですが、精神的にかなり参ります。みなさまどうぞお気をつけください。