富士山に登った話

富士登山について語ることはそれほど多くない。上り始めの天気は最悪で、去年登頂している弟は「もう中止でもいいんじゃないの」というスタンスだった。天気の回復も見込めない。でも我われは初めてなのである。登山用具一式レンタルし、前後泊に当日の山小屋の予約だってばっちりなのである。そう簡単には諦められない。
協力金を支払い、缶バッチを胸に登山開始。視界は一面、白に覆われている。横殴りの風が霙混じりの雨を叩きつける。猛吹雪の中を登山しているようで、冒険気分はいやがおうにも高まっていく。「上は雹が降っていた」と震えながら降りてくる下山者たちとすれ違う。テレビで見た行列はなく(あれは一番人気の吉田口の話)、視界が利かないせいでむしろ孤独を感じるくらいだ。ただ低山と違い、視界はなくても道迷いの危険はない。
800円の高級富士宮焼きそばを食べ、酸素缶を吸い、たくさんの人に抜かされながらじりじりと上った。宿泊先はは9合目である。到着した時はちょうど晴れていた。雲海に富士山の影が映っている。雲が切れる瞬間、下界までクリアに見通すことができる。写真やテレビの画面に切り取られる前の、雄大な景色が眼前に広がっている。
宿に到着して2時間後、土砂降りになった。まだ日暮れ前で、山小屋にはまだぞくぞく宿泊客が押し寄せてくる。ひとり半畳もない就寝スペースの壁面にずぶ濡れのザックやレインウェアを架けて寝る必要がなかっただけ、わたしたちはずいぶんラッキーだったのだ。
まったく眠れないと噂の山小屋で、わたしたち家族はしっかり眠った。夜中の2時頃出発しようとするが、外は雨が降っている。朝食用のお弁当を受け取り、さぁ出発というところで母が難色を示した。どうやら雨では外でお弁当が食べれないと不満らしい。こうなると母は動かない。仕方なく山小屋で朝食用のお弁当を食べ、午前3時前に再度出発。雨はさらにひどくなっている。ヘッドライトの明かりだけを頼りに、暗闇の中に飛び出した。ヘッドライトと弟の持つハンドライトの光で、思ったよりも視界は利く。雨が止む気配もなく、風はどんどん吹きつけてくる。ご来光を目指す人々に次々追い抜かれ、時間はどんどん過ぎていく。もうとてもご来光を望めるような状態ではない。
九合五勺の山小屋の前で、ついに父がギブアップした。これまでも酸素缶を手放さなかった父が、高山病でもうこの先へは進めないという。結構元気そうに見えるのだけれど、それはまぁ自己申告なので無理強いはできない。山小屋の中で休もうにも「高山病なら動けるうちに下山した方がいい」と当たり前の理屈で追い払われてしまった。夜が明けるまでにはまだ時間がある。雨風の吹きつける暗闇の中、人の波に逆らって下山するのは危険である。特に母は膝が悪く、下りにひどく時間がかかる。
短い話し合いの結果、弟は父に付き添って下山、母とわたしたち夫婦とは引き続き登頂を目指すこととなった。折りよくツアーの団体が「この先は風もさらに強く危険なので」と、ガイドの指示により下山を始めた。父と弟はツアー客の一員のように最後尾について降り始めた。
ツアーガイドが駄目と判断したものを登り続けてよいものか。しかも母を連れて。悩むところではあった(実際はツアー参加者の中に高山病の人がいたのが下山を決めた直接的な原因だったようだ)けれど、夜明けまでじっと留まっているのも寒くて辛い。じりじりと上を目指して進むことにした。闇が少しずつ薄まり、ぼんやりとあたりの様子が見え始める。相変わらず強風にあおられた雨粒が体中を叩いている。
父と別れてまもなく、頂上へはあっけなくたどり着いた。夜明けの時間は近いはずだけれど、太陽がどこから昇るのかはっきりしない。風に流れた歓声が時折聞こえるけれど、ご来光を拝めた人がいるとは思えない。お鉢巡りも剣ヶ峰への登頂も諦め、夜が明けきるまで山頂の山小屋で時間をつぶした。中にはゴミ袋を雨合羽にして震えている人もいる。天気は一向に回復しそうもない。富士山の奥宮でお守りをもらうことさえ頭に浮かなかった。大きな目的だったはずなのに。
昨日宿泊した山小屋で休んでいた父と弟に合流し、下山開始。相変わらず天候は優れない。下山はとても辛かった。登り以上に母のペースが落ちるからだ。富士登山の途中たくさんの人とすれ違ったけれど、うちの母より太った中高年の人には一度も出会わなかった。二度ほど大きく転倒し、母のリュックは弟が背負うことになった。下山目安が三十分のところを三時間かかった。疲れているので早く降りてしまいたいのだけれど、もちろんそういう訳にはいかない。
でも今思い返しても、富士山は楽しいところだった。高山病さえ心配しなくていいなら、また行きたいなと思う。御嶽山の悲惨な出来事があった後なので、ちょっと怖いとも思うのだけれど。