入梅の運動会

 明け方目を覚ますと雨音がした。カーテンを開けて外を見るとしっかりした雨が降っている。「最近の天気予報は外れないもんな……」とわたしは諦めたけれど、すぐには眠ることができなかった。今日は息子の運動会があるはずだったのだ。彼は毎日「ソーラン」を熱心に練習して帰り、家でもその確認を繰り返していた。運動会の日がくるのををとても楽しみにしていたのだ。朝の八時過ぎ、彼はひどく不機嫌な顔で学校に行くことになった。土曜日に運動会で食べるはずだったお弁当を持って勉強に行くなんて、考えただけで気が滅入る。今も雨は梅雨入りを知らせるにしてはいささか充分すぎるくらいに強い雨音を立てている。ちっとも止みそうにはない。
 本当なら先週の土曜日に予定されていた運動会を、何故わざわざ「入梅」とカレンダーに印刷された日に延期させる必要があるのか? 「隣の中学校と日程が重なったので」なるほど、兄弟で予定が重なると親も困るものね。でもそんなこと事前に打ち合わせることは出来なかったのか? あるいは日曜日に一日ずらすことに何か問題があったのだろうか? (歩いて十分ほどの隣の小学校は日曜開催だった)。では例えば五月の最終土曜日に予定を前倒しにするとか、以前のように十月に実施することは? 「五月は一年生が学校生活に充分慣れることが出来ないですし、十月は『つどい』(演劇や音楽発表の会)もあって忙しいので」たしかに、たった一週間の間にでも一年生の中では飛躍的に学校への順応能力が養われるのかもしれない。それに秋晴れの中行事であたふたすることよりは梅雨入り発表との微妙なスリルを味わうことも出来き、予備日に再び雨となる危険を顧みない毅然とした態度を大人が示すことが出来る分だけ『入梅の運動会』は教育的効果が高いのだろう。その深遠な配慮はわたしのような浅学の身には窺い知ることが出来ないのだ。
 去年もたしか六月の二週目が運動会だった。朝から空は薄暗く、どんよりと重たい雲が広がっていた。そして開会式の途中で静かに雨が降り出したのだ。雨脚が強まったところで一時中断し、子供達は教室へ避難した。わたしたちは傘を差し、ビデオカメラの心配なんかをしていた。少し肌寒く、わたしは何故か惨めな気分だった。競技は時折降る雨の中幾度か中断し、それでも予定通りに終了した。全校生徒合わせても二百人にも届かないからだ。わたしの子供の時とは違う。
 わたしも息子と同じ小学校を卒業した。その頃は一学年に百三十人以上がいたのだ。運動会の時は校庭中にびっしりと椅子を並べ、親は自分の子供の姿を探すのに苦労しなければならなかった。秋の澄んだ空は眩しく、太陽は真夏のように肌をじりじりと焦がした。人数が多く自分の出番はなかなかまわってこなかった。予定通り進行させるためわたしたちは出番のいくつも前から並ばせられ、先生たちはよく怒鳴っていた。その時の暑さと退屈、弛緩した身体、思考のだるさ、風に舞う砂埃の匂い  。それがわたしの中にある運動会の記憶だった。
 そしてかつて子供達が椅子を並べていたところには親がのんびりと座り、場所取りなんてする必要もない。校庭はひどくがらんとして見える。声援は音楽に容易に掻き消された。
雨に霞む子供達を見ていると、確実に時は流れたのだと思った。かつての子供達はみんな何処に消えてしまったのだろうか? わたしはひどく寂しかった。雨は余分な記憶を引き戻すのだ。
 やはり運動会は晴れた日にして欲しいと思う。わたしだって運動会を見に行ったくらいでいちいち感傷的になりたくなんてないのだ。