白い紫陽花

 今日は「花寺」として有名な(昨日知った)三室戸寺に行ってきた。何日か前の新聞で紫陽花が見頃だと、ここの写真が掲載されていたのだ。三室戸寺は西国観音霊場十番の札所である。五月にはツツジ二万株、今頃は紫陽花一万株が咲き、七月には蓮、秋には紅葉と四季を通じて美しい花模様を楽しめる処らしい。土曜日の雨のせいで延期されていた息子の運動会がまた中止になったので(結局雨は降らなかったけれど)せっかく出かける用意もしたんだし、「じゃあ雨が降り出す前に、いい機会だから行ってみようか」ということになった。三室戸は家からそう遠くないのに行くのは今回が初めてである。
 祖母も誘って母の運転で出発する。いつも込んでいる道が今日は空いていた。三室戸寺のすぐ前にある駐車場は五百円、時間制限なし。「ふむ、悪くないお寺だ」と思う。入山料も大人ひとり五百円。こういうのって観光して一日に幾つも廻ってると結構な額になるのだけど、今日はふらっと寄っただけなのであまり気にならない。
 祖母は膝が悪く八十五歳と高齢なので、本道までの緩い坂道と短いけれど急な階段を登るのにひどく時間が掛かった。「萼(がく)紫陽花きれいね」と何度も立ち止まる。ちょっとした花の色や形の違い、萼紫陽花の中心部にある花(花のように見えるのは名前の通り実は萼なのである)が咲いていること、紅葉の葉が小さいこと……、わたしにはとても些細に思える様々なことが彼女にとっては重要みたいだった。飽き飽きするほど時間を掛けて花のひとつひとつを見て歩くのも、たまには悪くなかった。祖母と一緒でなければ、あれだけの種類の紫陽花や蓮や紅葉が植えられていることにちょっと気付かなかったのではないかと思う。
 紫陽花庭園の中にある甘味処でお昼に茶そばを食べた。食後のデザートにカラフルな紫陽花ゼリーとひやし飴(関西以外ではなじみが薄いようだけど、生姜味の甘い飲み物です)を頼む。薄雲の広がった空から射す日は柔らかく、時折緑を抜けて風が吹く。すごくのんびりとしたいい気持ちだった。「ここは空気がいいから紫陽花の色がきれいなのね」と祖母が二十回くらい言う。土の酸性度によって花の色が色が変わるらしいよ、とは言わなかった。彼女にとってそんなことは何の意味も持たない。茶店から見える紫陽花は鮮やかな青色に染まっていた。「ここは青い紫陽花が多いみたい」と祖母は三十回くらい繰り返す。「そうだね。でもあっちの方にはピンクのも咲いてるし、それに白い紫陽花は珍しいから見られてよかったよね」とわたしは答える。白く小さな花の集まりは可憐で、触れるとふんわりと優しかった。『花のしとねで寝てみたい』と祖母は歌を詠むみたいに何度も言ったのだ。本当にそんな歌があるのかわたしは知らない。言葉を繰り返す度に思い出はより強くなる。でも、もしかしたらわたしが幾通りの答えを返せるか試されていただけなのかもしれない。
「宇治の茶団子!」と昔うるさく言っていた旦那さんのために茶団子をお土産にした。今度こそ彼の記憶の中にある味がするといいのだけれど――。
 帰りに入り口近くに出店している『清水焼窯元の直売店』を覗いて、高級な木で出来ているらしいお箸を三膳とフリーカップをひとつ選んだ。フリーカップは渋い黒銀で少しざらざらとした手触りがする。でも上薬が掛けられた三カ所の太い線模様と口の当たる縁だけは銅色に鈍く光り、つるっとしていた。
「ビールを注ぐととても細かい泡が立ちます。真夏に冷凍庫でカップを冷やしてビールを飲むとね、きゅっと冷たくてほんとに最高ですよ」と作者である『郁』さんは言う(カップの底にはちゃんとと刻印してある)。なんて魅惑的なセリフ! うんざりするほど蒸し暑い京都の夏がちょっと待ち遠しい気にすらなった。 
 ずいぶん前にこんな感じのビールマグを探していた頃は、なかなか気に入ったものに出会えず、結局買うのを止めてしまっていたのだ。でもこれはすごくよく手に馴染むし、お値段も手頃な千二百円。わたしは焼き物の善し悪しがよく分かる人間ではないけれど、これはなかなかいい買い物だったと思う。本当は隣に並んでいたあられ模様のカップ(白い小さな点が雪を表している)も欲しかったし、手鞠みたいな可愛い模様の夫婦湯飲みも欲しかった。でもあんまり気楽に買い物できる身分でもないので諦める。残念だけれど、近いんだしまた買う機会もあるだろうから……。
 でもやっぱり家に帰ってこのカップでお茶を飲んでいたら少し後悔してしまった。カップは冷たい緑茶の温度をそのまま手に伝えてくれる(熱いの大丈夫かな……、まだ試してないので心配)。水分を吸った部分は暗く色を変えて、新しい模様のように見える。本当に美しくて素敵なカップなのだ、これは。水を毎日3㍑飲むのも苦痛じゃないくらい。
「長く使っているうちにざらざらした部分も段々つるりとしてきて、また別の味わいが出てきますよ」とのことなのですごく楽しみである。それまでに割らないように気をつけなくてはならない。うちではお岩さんに呪いを掛けられたみたいに自然と器が割れ、次々と闇の世界へと消えていってしまうのだ……。
 

 これから七月の中頃まで紫陽花が見頃ということなので、近くにお越しの際はぜひ。花の開花情報が写真入りで詳しく*1ブログに掲載されています。すごく親切ですね。

*1:【京都の花寺】三室戸寺だより  http://www.hanadera.com/