晴耕雨読の日々

 今朝になって夏目漱石の『三四郎』を読み終わった。『こころ』のようにドラマチックな展開はないけれど、最後に少し切なくなる青春小説といった感じがわたしは結構好きです。だけど三十近くなった今になって読み返す『三四郎』は、高校時代のそれとは受け止め方がまるで違う、ような気がする。(十年以上前の感想なんてそんなにはっきりとは憶えていない)。それはその当時大人達から何度も言われていたことではあるけれど、実感として分かるようになったのはほんの最近のことである。あの時背伸びをして読んでいた小説の数々は字面以上の意味をわたしに与えてくれてはいなかったのではないか? ――だから当時の読書がまるで無駄に終わった……とは思わないけれど。小説に限らず全ての物事には『経験時』とでも言うべき時がある。それは今かもしれないし、二十年後なのかもしれない。あるいは十年ごとに訪れるのかもしれない。自分の積み重ねた経験やその瞬間の些細な気分の相違によって、あるものが人に与える影響は確かに異なる。それが小説を再読する楽しみなのでしょうね。
 そして児童書や絵本について言えば、やはり幼いうちに出会うのが良いように思う。小学生の時にどっぷりとのめり込んでいた物語も、小学生のわたしの記憶が胸の奥で騒ぎ立てるだけで、今となってはあの物語世界に深く垂直に入り込んでいく感性はすっかり失われてしまった。激しい高揚感、物語が現実世界との境界線を曖昧にしながら連綿と続いていく感覚、登場人物へのシンクロニシティー……、それらは同じ密度で再びわたしの胸に帰ってくることはないのだと思う。『経験時』はもう過ぎ去り、ある種のものについてはもう二度と戻ってはこないのだ。――そう考えることはとても哀しい。(ほんと『ハリー・ポッター』には小学生の時に出会いたかったな、と思う)。 

三四郎 (岩波文庫)

三四郎 (岩波文庫)

 今回夏目漱石を読んでみて、昔感じていたような「村上春樹作品との読後感の相似性」を強くは感じなかった(教科書の中の『こころ』 - 雨天炎天な日々参照)。何故なのかは自分でもよく分からない。ただわたしにとって夏目漱石の小説が感覚的にうまく理解できるようになった分、謎めいて感じていた部分がクリアになったからなのかもしれない。村上春樹小説というのは抽象的・感覚的に物語が進行していく部分が多くて、とても謎が多いから――。
 お昼からはウィル・スミス主演の『アイ,ロボット』を観た。最後の「落ち」は昔のアニメで観たことあるような気がする(幾つかね。割にありがちな「落ち」なのです)……、だけどそれが何だったのかはさっぱり思い出せない。それでもターミネーター的な恐怖や、清水玲子的(少しマニアックかな?)ロボットの悲哀なんかも感じさせてくれて、素直に楽しめるいい映画でした。
アイ,ロボット [DVD]

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http://www.foxjapan.com/movies/irobot/


http://d.hatena.ne.jp/motokurashi/20050704
 先週に引き続き「村上モトクラシ」に春樹さん本人のメッセージが載っています。すごく嬉しい。でも今回の「中古ジャズ・レコードの収穫について」の話は、あまりにマニアック過ぎてさっぱりついて行けなかった。わたしにはコレクター的要素がほとんど見当たらないから、春樹さんの喜びはうまく理解できない。でも春樹さんが楽しそうなのは文章からよく伝わってくるし、わたしもなんだか「ほくほく」した気持ちになります。
 そして第11回大調査、『メッセージ中にはたくさんの話題が出てきましたが、その中で、あなたがとくに興味をもったのはどの項目でしたか?』という質問の答えは「ダンキン・ドーナッツ」。消去法的回答でもあるけど、春樹さんの文章を読んでいるとやっぱり何か食べたり飲んだりしたくなる。だから答えは別に「夏エール(ビール)」でも良かったはずなんだけど、何となく身近なダンキンさんに一票。