七夕には雨が降る

 
七夕の日に、ジーコはお星さまになってしまった。
 ジーコは般若の顔をしたかわいいハスキーである。8月で満14歳になるところだった。5月の連休にお義母さんの実家で顔を合わせた時にはまだまだ元気で、こんなに早く死んでしまうなんてとても思えなかった。耳が遠くて近くで呼んでも気付かないのだけれど、立ち姿はシャンとしていて凛々しく、オオカミのように立派な毛はツヤツヤとして美しかった。ふつうの老犬みたいに目やにで目元を茶色く染めたりもしていなかった。足は短いけれど、なかなかの美犬で、知らない人が見ればまだ中年にも差し掛かっていないように見えたはずだ。
 でももちろん、ジーコはちゃんと年をとっていたのだ。そして散歩に行けなくなってからたったの3日で、あっさりと死んでしまった。
「これから介護生活が始まると思っていろいろ買いに行ったのに、ほとんど使うこともできなかった」と、お義母さんは寂しそうに言った。前は「介護なんてしないのよ、安楽死させてもらうから」と言っていたのに。14年というのは長い期間だ、と思う。「もうこれからはジーコのために5時までに帰ってこなくてもいいのね。散歩に連れて行く必要もなくて……、でもそれでどうしたらいいのかしら?」って呟く人に、「やっと自由になれてよかったですね」とは言えなかった。生きてるときにはいくらでも言えたのだけれど。
 ジーコはキンキンに冷えた部屋で一晩を過ごし、翌朝早く斎場へと向かった。斎場は小高い山の頂上にある。人間様が運ばれてくるにはまだ間があって、斎場は閉園後の遊園地みたいにしんとしている。係のおじさんは、とても愛想良く事務的にジーコを運び、動物用の炉に入れた。ゆっくりお別れを言う間はなかった。おじさんはさっさとジーコを燃やしてしまおうとする。ジーコは体が大きいから、燃やすのに時間がかかるのだ。
 わたしはジーコの足下からちらりと顔を覗き、白い布で覆われたジーコの体をぽんぽんと叩いた。それは生きている時と変わらずに、どっしりとしていた。でも目は刳り抜かれてしまったみたいにぽかりと黒く沈み、生命の輝きは少しも感じられない。
 ジーコの大きな体に比べて、骨はずいぶんと小さく脆いものに見えた。長い竹の棒で骨を拾い、瓶に詰める。大きな炉で焼かれた骨は、まだ熱を持っている。
 ジーコの骨が入った暖かな小瓶は、引き延ばされた写真と黄色いグラデーションの花束に囲まれて、でんとリビングに置かれた。それが目に映るたびに、ひっそりと庭につながれ、散歩の時以外は静かにしていたジーコのことを思う。そう遠くない未来に、ジーコが死んでしまうのはわかっていた。でも、それは今ではないいつかのことだったのだ。
 人も動物も、突然にいなくなってしまうように思える。遠くに暮らしているのと何も変わらないのに、ただもう二度と会えないのだ。でもそれをうまく理解することが出来ない。
 どこか静かな場所で、みんな幸せに暮らしていたらいいのに。