笑わしているのか笑われているのか

 これはバスフィズの話の続き。
 初めてバスフィズを使った日は、ほんとに酷い臭いがした。息子とわたしは鼻を歪め、さすがの(鼻の効かない)母も臭いがすると言っていた。「クエン酸の臭いだよ」とわたしは言った。年末、事務室のポットをクエン酸の洗浄液で消毒していた時、ほんとに酷い臭いがしたからだ。その臭いと一緒だと、あたしは思ったのだ。
 牛乳風呂の話は、ランチタイムの話題として大好評だった。柚木に対する評価が大幅に下方修正されたとしても、既に下がりようがないところに追い討ちをかけたのだとしても、わたしとしてはみなさんに喜んで貰えたのだから悔いはない。「クエン酸がとっても臭かったです」と、入浴剤の作り方を教えてくださった秘書のみなさんに報告する。クエン酸は臭いがしないはずなんだけど……と言われても、わたしはもう自信たっぷりなんである。
 次の日、秘書さんのひとりは、柚木の訴えを聞いてクエン酸の瓶に鼻を突っ込んで確かめてくれたらしい。それでもわたしは「水に濡れると臭いんですよ」と断言する。
 ランチタイム後、そんなわたしの元に隣室の秘書さん(秘書は2つのお部屋にいるのです)が「大変なことがわかりました」と囁きに来た。不安を掻き立てられたまま、隣室へ連行されていく。どなどなどーなー。
 トラの秘書さんがにやにやと笑いながら、わたしに致命傷を与える。隣室は肉食獣の住む部屋なのだ。
クエン酸はやはり無臭なのです。しかし、アルカリ性と反応すると臭いがするんだそうです(ネットで検索そうだけど、柚木は該当個所発見できず)。そしてな・ん・と、牛乳はアルカリ性なのですー」
 爆笑に包まれながら柚木はへなへなと崩れ落ちた。牛乳風呂はちゃんと掃除したんだよ、と思うけれど反論は許されない。Yさんに牛乳風呂の話をするからねー、と告げられる。Yさんはベテラン秘書さん(瓶に鼻を突っ込んでくれたのとはまた別の人)で、柚木の教育係みたいなことをしている、とてもきちんとした人だ。年明けにわたしが牛乳風呂の話をした時にはちょうど不在だった。不在だから話したとも言える。これ以上わたしの評価を下降させないように、牛乳風呂のことはYさんにはオフレコで……とみなさんにお願いしていたのだ。でもYさんがクエン酸のお掃除方を教えてくれたこともあって、わたしが「クエン酸が臭い」と騒いでいるのを気にしてくれていたらしい。クエン酸って温度が高くなると匂うけれども、お風呂に入れたくらいでは匂うはずがない……のだそうです。
 分かりました、でもちょっと猶予をください。家で原因を探ってきますから。と泣きながら訴えて、Yさんへの牛乳風呂事件告白はなんとか許してもらう。
 家に帰って実験開始。クエン酸を水に溶かし、臭いを嗅ぐ。くんくん。……確かに無臭だ。次はレンジでチン。くんくん。予想に反し、これもやはり無臭。問題の牛乳を投入。……しかしこれも匂わなかった。やれやれ、と一息つく。
 念のためにクエン酸濃度を変えてもう一度実験を繰り返す。
 本当に無臭なのだろうか、と小皿に溶いた高濃度クエン酸に鼻をギリギリまで近付け、大きく息を吸う。瞬間、右鼻穴に痛みが走った。「酸だよ、酸!!」と頭の中が白くなる。鼻の粘膜が焼ける音がする(気がする)。慌てて洗面所に走り、水で洗う。少しひりひりする。クエン酸の粉をそのまま飲んでも胃が丈夫でさえあれば問題ないようなので、柚木の鼻粘膜が次の日になってもまだひりひりしていたのは、ただの気のせいだったのかもしれないけれど。
 実験の結果からは、クエン酸と牛乳との化学反応が悪臭の原因ではないことが判明した。しばらく考えて入浴剤をくんくんしてみた結果、香り着けに使用したアロマオイルが原因だとわかった。ラベンダーオイルは平気なのに、マジョーラムを混ぜた方はひどい臭いがする。
 次の日、隣室の秘書さんたちに結果報告のメールを送る。牛乳が原因ではなかったのだよー、だからYさんには内密に。臭いの原因、マジョーラムの小瓶を持参いたしましたので、ランチタイムにご体感ください。(みんなは癒し系のよい香りだと言ってました。マジョーラムさんごめんなさい、でも柚木と息子の鼻には臭くてたまらないのです)。と楽しいメールを書いた。しばらくして、隣室から長い笑い声が響いてきた。部屋が振動するような大爆笑。
 ――こうやってせっせとくだらない毎日の記録を書きながら、柚木の日記を楽しみにしていてくれたり、読んでPCの前でがははと笑ってくれていたりする人がいるのかもしれない、と考える。もしそうであればどんなにいいだろう。だれどそれは柚木の幸せな空想の中にしか存在しないのかもしれない、とも思う。だから自分のメールを読んだ人のリアルな大爆笑が聞こえてくるのは、ただ単に笑われているのだとしても、やはりとても嬉しいのです。