牛乳風呂の恐怖

 潔癖性の気がある方は決して読まないでください。『のだめ』の1巻を読み、かつ、あんな不潔な女とでも友達に成りうる、と断言できる方のみ読み進めてください。そして読み終わった後も、どうか柚木のことを見捨てないでくださいね。
 では――。

 年末、大量の牛乳が余ってしまった。家を空ける日を計算せずに、いつもの通り生協の宅配を頼んでしまったのだ。一気に3本の賞味期限が切れた。未開封の牛乳、しかも季節は冬――。わたしは必死にそれを消費しようとした。それでも余ればワックス代わりに使ってしまおう。
 なのに母は、新しい牛乳を買ってくる。そうなればもうギブアップするしかない。「牛乳風呂にするからいいよ」という言葉どおり、母はその3本の牛乳をお風呂に入れた。年末26日の夜のことだ。
 母は次の日から韓国に旅行に行くことになっていた。(満州出身の祖母が生まれ育った場所を親子で見に行くのが目的であって、ヨン様追っかけツアーではありません)。でもその夜の時点ではまだ旅行の準備は完了していなかったし、彼女が大掃除を始めた部屋はひどく散らかっている。
 わたしは何故だか少しも片付ける気がしなくて、彼女が掃除をしながらどんどん部屋を散らかしていくのをうんざりした思いで眺めていた。うちの母はちょっと珍しいくらい片付けるのが下手なのだ。もちろんその血をわたしもしっかり引いているわけだけれど、そんなわたしでも文句をつけたくなるくらいに酷い。わたしも高校生の頃までは、片付けとはまず散らかすことから始まると信じていた。母は片付けたいと思い付いた場所にあるものを、ます広げることから開始する。引き出しの中のものを外に出し、周辺にあるものすべてを無秩序に移動する。そしてその場所の片付けが完了しないまま次へと移動する。次々と――。まったく、片付けているのか散らかしているのかは判断に苦しむところだ。
 母が「片付けた」と言う場合、たいていはかえって部屋は汚くなったようにみえる。「ほらここ!」と指さされた場所をみると、確にきれいになっている。つまり大局は汚れ、局地的に美しくなるというのが母の掃除の特徴のひとつである。
 前書きばかり長くなったけれど、牛乳風呂に話は戻る。
 クレオパトラがこよなく愛したといわれる牛乳風呂。母は韓国行きの準備も終えないまま、のんびり牛乳3本が注入された湯船につかり、そのまま寝てしまった。朝は大急ぎで荷造りを仕上げ、ほんの少し掃除の続きをしてそのまま出発した。もちろん、牛乳風呂はそのまま、まったく、わたしが予想していたとおり。
 27日夜、そのまま牛乳風呂を捨ててしまうのももったいないな、少しぐらいつかってみようか……と思案しながらお風呂のふたを開けた。瞬間、すっぱい臭いが鼻を突き刺す。浴槽にたまったお湯は、前日のように美しい乳白色ではない。透明な水の上一面に、白いヨーグルトが浮かんでいる。あぁ、確に人肌の温度は牛乳が発酵するにはちょうど良いのだものな、と冷静な声が頭上を通り過ぎる。すぐさま栓を抜き、「臭いものには蓋」と唱えながらそのまま扉を閉めた。排水口に降り積もるすっぱいヨーグルトを想像すると、掃除をする気になれなかった。
 もちろんわたしだって、あれほど悲惨な結果が待っていると分かっていたら、すぐにきちんと掃除をしたはずだ。でもわたしは冬眠中の熊みたいに無気力で、牛乳風呂をほったらかしにしたままさっさと韓国へと旅立って行った母に少し腹を立ててもいた。次の日の朝、わたしは旦那さんがお風呂を掃除してくれるかもしれないという淡い期待を抱きながら仕事へ出かけ、そのままお義母さんの家へ行った。母は30日に韓国から帰ってくる。どちらにしても、母が先に牛乳風呂後の悲劇を目撃するのだ。ちょっと母を懲らしめてやろう、という気もあった。きっと母はそれほど気にしないだろうけれど、まぁいい。
 正月3日、わたしは自堕落で甘美な寝正月を過ごし、恐怖の待つ家へと戻った。でも正直なところ、たいして酷いことにはなっていないだろうと思っていた。母からの電話もなかったのだ。黴くらいは生えたかもしれないし、すっぱい臭いがちょっと鼻につくかもしれないけれど――。
 でも、それは甘い考えだった。
「すっごいことになってたよ。牛乳が層になって溜った上に青黴がびっしりは生えてて。浴槽がマーブルに染まっちゃった」
 母の言葉に、急いで浴室の扉を開けた。強烈な臭気に涙を堪え、浴槽を覗く。確にマーブル模様だ。クリームイエローの浴槽の底に、緑がかった黒い染が不気味な文様を描いている。
 このお風呂は、果たしてまた使えるようになるのだろうか? ブルーチーズの壁に囲まれてシャワーを浴びる精神力がなければ、とても無理なように思えた。
 母は抗癌剤を飲んでいたことがあるせいで鼻が効かない。あれほどひどい臭気もそれほど気にならなかったのだろう、何度かシャワーは使ったはずなのに、カビキラーもパイプクリーンもまだしていないのだと言った。
 わたしは自分の浅はかさを激しく呪いながら、そのまま薬局へダッシュした。「牛乳雑巾」、この言葉をちらりとでも思い出していたら――。後悔先に立たず。
 これから牛乳風呂に挑戦しようとされている方、くれぐれもすぐに掃除を終えてください。悲惨な実体験に基づき、心からご忠告申し上げます。